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日本の伝統的な三色―黒の化粧

日本の伝統的な三色―黒の化粧

肌と化粧品

化粧品の歴史

前回、古代人が儀式において死者の魂を鎮める意味のほか、生きている人間にとっての魔除けの意味でも使われていた「赤の化粧」について触れましたが、続いて広まるのが、「黒の化粧」です。

「黒の化粧」とは、歯黒・鉄漿(かね)などを表す涅歯(ねっし)の風習や眉化粧に代表されます。

お歯黒の起源

『魏志』倭人伝には「裸国・歯黒国有り」という表現で、歯を黒く染める「お歯黒」の風習を連想させる記述があることから、場所の特定はできないものの、日本にお歯黒をしていた地域があったと推測されます。

お歯黒の起源は、未だはっきりとは分かっておらず、南方系の民族が日本に渡来したときに持ち込んだという説や、インドから中国や朝鮮半島を経由して伝わったという説、または日本で独自に発達したという説があります。

平安時代の黒の化粧

平安時代には宮廷女性たちがお歯黒をつけ、眉の化粧をする記述がいくつも残っています。ただこの時代には化粧品はとても貴重で、化粧ができたのは貴族や地方豪族といった支配階層が中心でした。

「黒の化粧」は、『源氏物語』において、のちに光源氏の妻となる紫の上の少女時代にその描写があります。
源氏が手元に引き取る前の紫の君は「眉のわたり、うちけぶり」と、自然のままの眉だったそうです。しかし引き取ってしばらくして、源氏の指示でお歯黒をして眉の手入れをさせたところ、「眉のけあやかになりたるも、美しう清らかなり(眉がはっきりして美しくなった)」とあるのです。

当時の眉化粧とは、眉を毛抜きで抜き、眉墨で新たに眉を描く化粧でした。この頃の紫の君は十歳前後です。
逆に言うと、貴族の女性が年頃になってもお歯黒や眉化粧をしないのは非常識であったとも言われています。

虫めづる姫君

平安時代後期から鎌倉時代にかけて成立した物語、『堤中納言物語』の一遍に「虫めづる姫君」のエピソードがあります。
この物語の主人公は、きれいな蝶よりも醜い毛虫をかわいがる一風変わった姫君です。

彼女は「人は総じて、取り繕うところがあるのはよくない。」と言って眉毛は全く抜かず、お歯黒も「煩わしい、きたない。」と言ってつけず、真っ白な歯を見せて笑いながら毛虫たちをかわいがっていたそうです。
そんな彼女の両親は世間に対してきまりが悪く恥ずかしいと思い、また姫君を垣間見した男も、姫君がお歯黒をしていないので色気に欠けると評しています。

このように、貴族の間では化粧があたりまえとなっており、中でもお歯黒や眉化粧の「黒の化粧」は大人の女性の美しさをあらわす大切な化粧だったことが分かります。

参考文献

  • 『化粧にみる日本文化』(著)平松隆円 株式会社水曜社 2020年
  • 『化粧の日本史』(著)山村博美 株式会社吉川弘文館 2016年
  • 虫めづる姫君 堤中納言物語 (訳)蜂飼耳 光文社 2015年