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日本の伝統的な三色―白の化粧

日本の伝統的な三色―白の化粧

肌と化粧品

化粧品の歴史

白肌にするための処方

『源氏物語』の成立より少し前の永観二年(984)に、日本最古の医学書『医心方』が朝廷に献上されました。これは、隋や唐の膨大な医学書から選んだ処方を、宮中医師がまとめたものです。
この中には、毛生え薬、髪に光沢を与える処方、白髪染めなどのヘアケアの処方のほか、色白の美肌にする内服薬や、顔につけて肌を白くする現代の化粧品のような処方があったとされています。
またこれらはすべて「美人になる方法」の章に含まれており、この頃すでに、白い肌に対する美意識があったと言われています。

白い肌の意味

肌の白さは、日本人の白い肌への憧れについて | 肌ルネ「すっぴんマガジン」 (s-bac.com)でもお伝えした通り、日に焼ける労働をしない高貴な身分の証であり、同時にその頃貴重だった白粉を手にすることができる裕福な階層に属していることを意味するステイタスシンボルであったとされています。

男性化粧の始まり

平安時代後期になると化粧は公家の男性にも広まります。
室町時代になる頃には、天皇や公家の男子は、成人になったことを示す元服の儀式の前にお歯黒をつけ、眉毛を抜き、眉墨で眉をつくる儀式を行っていたそうです。

化粧をした公家男性は、その時代の絵巻物にて、ひときわ白い肌や太い楕円形の眉を持ち、周囲の身分の低い者とはっきりと区別されています。

公家の男性からはじまった化粧は、平安末期には武家の武士たちにもおよびます。
代表的な武家集団である平氏は、朝廷のある京都にて権力の座につき、公家をまねて化粧をしていました。そのうちに、武士が合戦をする身だしなみとして、化粧をしない行為は侍の御禁制となり、守らないものは出仕停止にまでなったとされています。

その後戦乱の世が終わるにつれ、合戦の身だしなみという目的で化粧する必要がなくなっていき、華美をつつしみ倹約を規範とした江戸幕府によって、徐々に武士たちの化粧はなくなっていきます。
しかし、伝統文化を継承する天皇や公家の男性は、明治幕府から化粧を禁止される十九世紀後半まで、白粉やお歯黒などの化粧を続けたとされています。

このように、化粧文化のもともとは呪術的な目的として赤の化粧が広まり、その後黒や白の化粧が貴族のステイタスシンボルとして、そして身だしなみとして発展していきます。
この頃の文献は女性中心のものがほとんどないという理由もあるかもしれませんが、少なくとも平安時代までは、化粧の男女差はほとんどなかったのだそうです。

参考文献

  • 『化粧にみる日本文化』(著)平松隆円 株式会社水曜社 2020年
  • 『化粧の日本史』(著)山村博美 株式会社吉川弘文館 2016年