「渇愛」という仏教用語があります。
食欲、睡眠欲、性欲、物欲、承認欲求などは、人体の穴(目、耳、鼻、口、肛門など)を満たす快楽。
GIVE and TAKEのTAKEによって得られる満足です。
渇愛という人間の欲望は際限がなく、何か満たされると、またその先を求めて、、、を繰り返してしまいます。
渇愛の分かりやすい例が、お金という欲でしょう。
収入は上を見ればキリがありません。
1000万、5000万、1億、5億、10億、いくらあれば安心するのでしょうか。
ハイブランド商品や宝石、高級車、クルーザー、別荘、自家用ジェット。
最近は宇宙旅行でしょうか。
我々人類はどこへ向かっているのでしょうか。
資本主義欲望まみれの世の中では「もっと売って、もっと利益を上げて」が当たり前の目標になっているから、人間はどんどんエネルギーを消費して、環境破壊を続けています。
環境意識の高い方が、「地球は死にませんよ。死ぬのは私たちです。」とお話されていました。
ドキッとしました。
地球に優しいとか言っている場合ではなく、我々人類が生きられなくなってしまうというダイレクトな表現は胸に刺さります。
「美容欲求」も渇愛だと思います。
もっときれいに、もっと美しくなりたいループにハマる人がいます。
これは虚しく、いつまでたっても満たされない永遠のラットレース。
渇愛的美容は不健全ですし、多くを求め、過剰な美容医療を受けても顔は張りぼて、美しい生き方と思えません。
どこかで「まあ、こんなものか」と割り切りながら、ほどほどに持続可能なメンテナンスをしている人は健全な精神の持ち主ですし、きれいでいることがQOLを高め、人生の本質部分に貢献できれば、それは丁度よい美容欲求だと言えるでしょう。
美容医療に携わっていると、自分のやっている仕事は、視覚的客観的に肌を美しく清潔に整えるということが使命であり大前提なのですが、その人の心が美しく整うように美肌治療をしているような感覚があります。
私自身が身に付けた美容医療のスキルや考え方を通して、人としての生き方を見つめ直し、自分も社会もより良くしたいという志の方々が増えたらいいなぁと思っています。
渇愛の虚しさに気付いたのは40代半ば頃でしょうか。
知足できたことは良かったのですが、人生の目標を見失った気分になりました。
欲が無ければ成長が止まってしまうかもしれないという漠然とした焦燥感から、本心では願ってもいない目標設定をすることもありましたが、何かおかしいといつも心の中に小さなしこりを感じていました。
お釈迦様は、「志欲を満たしなさい」と言います。
志欲とは、自分の持てる能力を人のために活かすということです。
GIVE and TAKEのGIVEによって得られる満足ですね。
何を与えることができるのか?については、個人個人の得意なことによって個性があっていいのです。
今年はクリニックの人事制度を作成するために、動画で学習を続けているのですが、その動画の中で、繰り返し出てくる言葉を紹介します。
「相手はどんな人で何を求めているのか。相手のために何ができるのか。」
これはまさに志欲ではないでしょうか。
私自身は、まだまだ志欲ばかりではなく、恥ずかしながら少しは渇愛も残っています。
若い頃は100だった渇愛も、今は10くらいに減りました。
減った90が全て志欲になっているかというと、そんなことでもないような気がします。
これからは、相手のために何ができるのか?を真剣に考えながら、自分の持てる力を惜しみなく他人に降り注げるような人間になりたいと本気で考えるようになりました。
今まで学んできたことを掛け合わせて、世のため人のために自分の力を使える人に成長したいと思います。
35歳で悟りを開いたお釈迦様の教えは、2600年経っても色褪せず、人生の本質を捉えていることに畏敬の念を抱きます。