9月9日、父が永眠しました。
昨日通夜、本日葬儀を無事終えることができました。
つきましては予約変更をお願いすることとなった患者様には大変ご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ございません。
約2年前に脳梗塞を発症し、失語症となり、いろいろ不自由な体になりながらも、2年間頑張りました。
いえ、頑張ったかどうかは不明です。
「何もやることがない(できない)。もう死ぬしかない。」と度々口にするほどの絶望感だったかもしれません。
脳に広範囲のダメージを負ったことが原因で、健常人が当たり前に行うことが出来なくなるのですから、相当なストレスではなかったのではないかと想像します。
2022年12月退院後、一人暮らしが困難になり、2023年1月には説得してサービス付き高齢者住宅に入居してもらいました。
そこでの生活に慣れるまでにも3か月くらいかかりましたが、2023年4月ごろからだんだん精神が落ち着いてきたようで、友人に会ったり、演歌のコンサートに行ったり、野球観戦したり、それなりに暮らしを楽しもうとしていた様子でした。病気直後は、私や兄に連日「助けてくれー!」と悲痛の叫び電話がかかってきていたのですが、その頻度が減りホッとしたものです。
2023年5月には、親戚のいる名古屋まで足を延ばし、父の両親の法要にも参加することができました。
2023年8月、コロナに感染し入院。重症には至らず、1週間ほどで退院できましたが、これが引き金で肺が悪化したような気がします。
2023年11月から誤嚥性肺炎を繰り返すようになりました。
2024年3月下旬、とうとうファイナルステージ。介護付き老人ホームへ移りました。
2024年8月、再び誤嚥性肺炎で入院。CT検査ではすでに肺がボロボロになっており、これ以上延命処置をしても苦しむだけだと終末期宣告。
「退院=死」が差し迫った状況の中で、父を退院させる決断をした時は、死刑宣告をする裁判官と同じような気分なのかしらと想像したものです。親といえども他人の命を決めることの責任が重く重くのしかかります。
9月6日退院後、老人ホームに戻りました。案の定、2日後に意識を失いました。
駆け付けた時は意識不明でしたが、数時間後奇跡的に意識が戻り、声を出すことは叶わなかったものの、話しかけると目を開けて反応してくれました。
私の家族、兄夫婦、病気の母も駆け付け、一緒に過ごした最期の時間は実に尊いものでした。
最後の2日間、最後の力を振り絞って、私たちの声掛けに反応してくれたし、時々ニコリと笑顔も見せてくれました。
血中酸素濃度が低下したため、苦悶の表情でした。何度も何度も酸素マスクを自分で外そうと抵抗していた様子を見ると、やはり苦しそうで可哀そう。人の命はそう簡単に消えないものです。
38時間30分も苦しそうな呼吸を続け、やっと安らかに息を引き取りました。その瞬間、心のどこかで正直安堵したものです。
親が病気になると、子供はいろいろな決断をしなくてはなりません。
仕事で鍛えられていますので、決断することには慣れていますし、父のことだけでなく家族みんなのことを考えて判断し行動してきたつもりです。しかし、父にとって最善だったかどうかは今でも分かりません。
父はずっと自由で、遊び人で、人にあれこれ指図されるのが大嫌いだった人ですから、老人ホームなどもはや洞窟の暗闇にいるような状況だったのかもしれません。いつも友達に囲まれ、ワイワイするのが大好きだった人なので、寂しかったのだと思います。
「何にもやることないから、遊びに連れ出してよ。」と何度も何度も催促されましたが、私にも私の人生がありますので、毎日父の相手は出来ません。自分自身の精神状態を保ちながら、出来る限り面会に行ったり、食事に連れ出したと思うのですが、父にとっては不足だったのでしょう。
何となく死期を察した8月下旬から、ほとんど毎日仕事帰りに父の病室を訪れました。
コロナが明けて、病院の面会時間が19時までになったことも有難く、穏やかに話すことができ、幸せを感じました。
やるべきことはやり切りました。悔いなしです。
何の因果か、美容医療の認知度が極めて乏しかった頃から美容外科の道を志し、アンチエイジング専門の美容医療に携わること24年。私が美容医療で少しでも患者さんのお役に立てている(?)のも、両親が私を産み育ててくれたからです。ご先祖様への感謝の念が堪えません。
父をしっかり供養することこそ、子としての務めであり、自分自身の成長になると改めて考えさせられた数日間でした。
通夜と葬儀に参加して下さった親戚とご友人の皆様、
父のお世話をして下さった老人ホームの皆様、
入院中優しく看病して下さった病院の先生と看護師さん、
最期のセレモニーを滞りなく運営して下さった葬祭センターの皆様、
良き関係者に恵まれました。心よりお礼申し上げます。